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help リーダーに追加 RSS 【護良親王】鎌倉宮【土牢】

<<   作成日時 : 2005/10/24 00:28   >>

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 鎌倉宮は、鶴岡八幡宮の東方1キロほどのところに位置し、明治天皇によって創建された比較的新しい社である。
 本殿裏に、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)が、足利尊氏に捕らえられ9ヶ月間幽閉されていたという土牢がある。その護良親王が鎌倉宮の祭神である。
 
 護良親王は後醍醐天皇の皇子であり、鎌倉幕府討幕に執念を燃やす父とともに幕府軍と戦った。北条高時が鎌倉の東勝寺にて自刃し鎌倉幕府が滅亡すると、早速後醍醐天皇は、後に「建武の中興」と呼ばれる親政を行うがあえなく失敗。足利尊氏が勢力を伸ばし、親王は尊氏を討伐するべく兵を集めていた。そのような状況の中で、護良親王が尊氏に対する謀反の廉で捕らえられてしまう。清涼殿での詩会に出席するため参内した時であった。親王は鎌倉に護送され、現在の鎌倉宮の本殿裏にある土牢に9ヶ月もの間幽閉された。その後北条時行が乱を起こし鎌倉を攻めると、尊氏の弟の足利直義は、鎌倉を撤退する際に親王の首を刎ねた。
 元来護良親王は父後醍醐天皇以上に気性が荒く、天皇も親王が若い頃からもてあまし気味だったようである。幼少時に出家させられたが後に還俗し、皇子の身でありながら鎌倉幕府軍と自ら刃を交えた。大塔宮は出家時代の名前である。尊氏打倒の練習と称して京の町で辻斬りをしたりもしている。おまけに後醍醐天皇には36人も子供がおり、次の天皇の地位をめぐって熾烈な争いが繰り広げられていた。後醍醐天皇としては、尊氏と親王どちらが勝っても目の上のたんこぶであることに変わりなかったのであろう。
 実は親王は生き延びて石巻に逃れたという伝説も残っている。

 土牢とはつまり小さな洞窟のようなものであろうか。数畳ほどの広さの岩の裂け目に、木製の頑丈な柵がはめ込まれている。天然か人工かは判別不能。中を覗き込むと思ったよりは広いのだが、地表は岩がごつごつとしていて、とてもこんな場所で足を伸ばして眠れるとは思えない。9ヶ月も幽閉されたら辛いなどというものではないだろう。よく生きていたものだ。現物を目の前にすると親王に対して哀れみを催す。
 そもそも何故このような場所に親王を幽閉したのか、いまいち理解に苦しむ。囚人とはいえ一応皇子である。普通はもう少しまともな待遇をするものではないだろうか。それとも本来そういうものなのか。その辺の事情には詳しくないのでわからない。
 いろいろと因縁があり、足利尊氏は親王に対して相当頭にきていたのは確かなようだ。護良親王の方も相当キレた性格だったようであるから、普通に幽閉したのでは危険と判断したのかもしれない。それとも最初から死なせるつもりだったのであろうか?
 幽閉されていたのは実はこの土牢ではないという説もあるが、真相は如何に?政治が絡むと厄介なので言及は避ける。
 賽銭箱にお金を入れ、供養の木の札に名前を書き、供えて手を合わせた。土牢に夕日が差し込んでいた。
 残念ながら宝物殿は時間の都合で断念した。また次の機会に見ることにする。

※写真は土牢内部。携帯で撮影。

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