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こちらは前回記事を書いた「最澄と天台の国宝展」のついでに寄った。残念ながらすでに展示は終了している。 法隆寺宝物館に入るのは2回目である。建物自体のデザインもなかなかのものだ。 「天寿国繍帳」の方は、何でも日本史の教科書によく載っていて、かなりメジャーらしいのに全く記憶にないのは、恐らく私が学生時代に日本史の教科書など開いたこともなかったせいであろう。 聖徳太子は推古30年(622)に逝去したとされる。太子の妃である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は太子を偲んで、この「天寿国繍帳」制作を推古天皇に発願し、宮中の采女たちにより刺繍されたとされる。 聖徳太子については、近年その存在を疑問視する説があるが、そもそも聖徳太子の存在を裏付ける数少ない資料の一つが、この「天寿国繍帳」であるらしい。とすると、この「繍帳」も捏造なのか。 しかし私の曇った眼では、現物を見ただけで判別することは不可能だ。何やら子供の落書きのようにも見えるが、オリジナルと、鎌倉時代の写しが切り貼りされており、不思議なことに鮮明な部分がオリジナルということである。後でカタログを見ると、確かにオリジナルの部分の方が、刺繍がひじょうに精緻で、名もなき采女たちの故人に対する思いが込められているような気はする。当然原本はより巨大なものであったので、果たして捏造するつもりで、この一大プロジェクトをここまで遂行できるものか疑問ではある。しかし、藤原不比等ならやりかねないかもしれない。 あるいは「繍帳」自体は元から存在しており、「聖徳太子」ゆかりのものに摩り替えたということも考えられなくはない。 しかしこの「繍帳」の全文を伝える「上宮聖徳法王帝説」の成立は7世紀後半まで遡るらしい。「日本書紀」成立の約20年前である。 その後この「繍帳」が記録に登場するのは、中宮寺の尼真如によって再発見される文永11年(1274)。つまり鎌倉時代である。蔵にしまい込まれて、法隆寺の僧侶すらその存在を知らなかったらしい。その間のことは記録にもなく、最早誰も知らない。その後の足取りは割りとはっきりしている。 もし後世に捏造されたとすれば、適当なタイミングで再発見されていたのであろう。まさかいきなり「日本書紀」で、「むかしむかし聖徳太子という偉い人がいました」とぶち上げるわけにもいくまい。「書記」編纂中に法隆寺から引っ張り出されて、世紀の大発見を偽装したのであろうか。いずれにしても腹黒い不比等さんなら、きっと超絶シナリオを考えるに違いない。そのようにうがった見方をすれば、感動的な橘大郎女のエピソードも、出来すぎのような気がしてくる。 しかしゼロからあのような人物を創造するのはかなり難しいと思う。実在の人物を脚色したと考える方がやはり無難だろう。 「天寿国繍帳」は奈良、中宮寺の所蔵で、これまた国宝の「菩薩半跏像」の隣に展示されているらしい。昨年だったか、同じく東京国立博物館で観る機会に恵まれた。これも何かの縁か。 「聖徳太子像」の方は法隆寺所蔵で、平安後期の作。 「国宝・聖徳太子絵伝」は、宝物館の常設展示である。 もし奈良に行く機会があれば、中宮寺に立ち寄って、もう一度拝見したいものだ。 国宝・天寿国繍帳と聖徳太子 中宮寺上宮聖徳法王帝説―注釈と研究
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日本の歴史 安土桃山時代の日本史を斬る 2007/09/19 07:46 |
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